山に入り、己へ還る
Book title:
Tao
Book size:
2012
Pages:
K
Binding:
J
山に入ると、
言葉は、ひとつずつ消えてゆく。
風は語らず、
木々もまた、何も説かない。
鳥はただ鳴き、
水はただ流れ、
山は、ただそこに在る。
何も教えようとはしない。
それなのに、
その沈黙の中で、
人は多くのことを知る。
一歩、また一歩。
足を運ぶほどに、
里で抱えていた思いは遠ざかり、
心を満たしていた声も、
いつしか聞こえなくなってゆく。
山が静かなのではない。
山の静けさに触れて、
自分の内にあったものが
静けさへ還ってゆくのだ。
頂を目指して、上へ登る。
けれど不思議なことに、
登るほど、意識は深く降りてゆく。
外へ向かっていた眼差しは内へ。
満ちていたものは空へ。
握っていたものは、ひとつずつ手を離れてゆく。
やがて残るのは、
風と、木々と、呼吸と、
そこにいる自分だけ。
山頂から眺める天地は美しい。
けれど、山の道とは、
頂へ至るためだけの道ではないのかもしれない。
天へ近づきながら、
己の深みへ降りてゆく。
遠くへ向かいながら、
本来の場所へ還ってゆく。
私は、登山そのものが好きなのではない。
ただ時折、
天地のあわいに身を置き、
何者でもない自分へ還るために、
山へ入るのかもしれない。